かわじ民夫

河治 たみお
日本共産党横浜市会議員

プロフィール


略歴

1951年新潟県生まれ。県立燕工業高校卒。東洋電機製造(株)に入社。同社相模工場労組職場委員、労働者の解雇撤回闘争などに参加。中希望が丘保育園父母の会会長、旭民主商工会顧問など歴任。横浜市議3期め。
市会における現在の所属常任委員会などはこちらをご覧ください。

現在、日本共産党横浜西南地区委員会常任委員、党横浜西南地区基地対策責任者、党旭区委員長、あさひ革新懇代表世話人。家族は妻、2男、メダカ。

私の原点

みんなが力を合わせれば政治は変えられる・誰もが安心して暮らせる社会

貧しいながらも兄姉仲は良く温かい家庭で育ち、高校卒業後に横浜で重電機会社に就職。働く人の立場で頑張っている日本共産党を知りました。「みんなが力を合わせれば政治は変えられる」「誰もが安心して暮らせる社会」これが私の原点です。「自己責任」ばかりを押し付ける国の政治から、市民の福祉・暮らしの防波堤となる市政に切り替えましょう。

H I S T O R Y かわじ民夫

貧しい農家の次男に生まれて

私は、1951 年(昭和26 年)に新潟県の農家に生まれました。5 人兄姉の二男、貧しい家庭でしたが兄弟助け合い、みんなで両親の農作業など手伝をしました。村のだれもが高校進学は当たり前だったのに、兄や姉は中学卒業で就職。私だけが野良仕事を手伝う事で工業高校(電気科)に進学。兄が町工場での少ない給料で買ってくれた自転車で通学、冬は積雪も多く大変でした。

希望を抱いて横浜へ、そして寮生活

高校卒業後横浜の電機会社(東洋電機)に就職しました。1970 年代は高度経済成長時代の真っただ中、同期は約400人。配電盤の機構設計部署に配属され、自分の思いを反映できる職場で、先輩も優しく楽しい日々を過ごしました。

希望を抱いて横浜へ、そして寮生活

高校卒業後横浜の電機会社(東洋電機)に就職しました。1970 年代は高度経済成長時代の真っただ中、同期は約400人。配電盤の機構設計部署に配属され、自分の思いを反映できる職場で、先輩も優しく楽しい日々を過ごしました。

共産党との出会い、そして入党
優しい先輩の話を聞く中で、社会や政治、職場の矛盾に目覚めていきました。仕事は忙しく残業の連続、帰宅した寮の夕食はご飯もおかずも冷めていて最悪(電子レンジなどまだ無い時代)。先輩たちの食堂改善要求運動は思いが一致しました。働きやすい職場を目指して労働組合活動をしている先輩から日本共産党への入党を呼びかけられました。しかし、保守的な家庭で育った私は、すぐに頷くことができませんでした。職場では、理不尽な配置転換や差別が次々と起こりました。仕事もでき周りからも慕われ尊敬できる人たちをねらいうちです。「こんなことはおかし
い。先輩を応援しよう」との思いで入党を決意しました。

共産党の活動を職業に

入党してからは労働組合活動にも参加し、賃上げや職場環境改善に取り組みました。1978 年、会社の機構変更で職場ごと京都へ移動になりました。時を同じにして共産党の専従活動の要請を受けました。「私にはできません」と断るも、繰り返される要請に「より良い社会の実現は政治を変えることだ」と決心し日本共産党の職員になりました。

Q、なぜ日本共産党の市議になったの?

市会候補の要請があり、「そんな大それたことはできない」と断るも、貧しい少年時代を過ごしたことが思い出され、「だれもが安心して暮らせる」社会を創るための要請なら応えよう。貧しさにとらわれることなく、一人一人が大切にされ、安心して暮らせる社会にすることは、亡き父母も喜んでくれると思いました。

市会議員としてのやりがいを感じたこと

一期目の時です。高齢化が進む中で横浜市は中学校単位に一か所の地域ケアプラザ設置の方針を出しました。地元の人達と一緒に運動し、南希望が丘の地域ケアプラザが運動で実現したことです。当時の市長が「施設整備のための土地は買わない」としていた方針を、住民運動で覆して実現しました。署名用紙を増し刷りして協力してくれたお医者さんもおられました。区役所・市役所へ何回も署名を届けて、予算がついた時には地域の皆さんと一緒に喜びあいました。

「父じゃなく叔父さんだよ」と言っていた息子が応援演説

「やだー…!」と、次男(中学2年生の頃)。私が47 歳の時でした。その頃から白髪が目立っていました。選挙に出ることになり髪を染めて帰宅した時の息子の拒否の訴えでした。それまで息子には出馬の話をしていませんでした。後で聞いた話ですが、ポスターが張り出され時友達に「ポスターの人はお父さん?」と聞かれると、次男は「違うよ、あれは叔父さんだよ」と。周囲からのプレッシャーだったようです。
その息子が、大学生になり社会の矛盾を感じ、いろんな事を学んだのでしょう。選挙戦では自らマイクを握り「学費が高く大変です、安心して学べるように。私は共産党を応援します」と応援してくれました、うれしかったです。その次男は今、2 児の良きパパとなっています。

新着記事

  • 過去の記事

PAGE TOP